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神社について

 真田氏発祥の地に暮らす私たちにとって惹きつけてやまないもの、真田一族は土地とそこに暮らす人々を大切にしたことです。
 治山治水に力を注いでいたゆえの、自然地形を利用した戦法。
 有事の際には産土大神である山家神社で戦勝祈願をするのではなく、領民と無事に戻ってくることを祈った姿。
 ここ真田の里では真田一族…とききますと私たちもその一族に入っています。それほどにこの地に暮らす各家、各一族が固い信頼関係で結ばれていたのだと感じます。
 真田家の為ならとこの地に暮らす人は動き、真田家はまた、私たちのご先祖様の為に動いて下さった。
 お互いが守り護られる関係、これが信濃の小さな一族が、決して折れない槍を心に秘めて生き抜いた強さの秘訣であり、現代においても地域の宝となっています。
 どうして真田氏が神としてこの地に祀られたのか…この郷を歩き感じてください。

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御由緒

 真田氏は周知の如く当地より出て、全国に名を馳せた武将である。上田城で二度にわたり徳川の大軍を撃破し、また、大坂の冬、夏の陣では幸村(信繁)の活躍により徳川軍を大いに苦しめ、「真田日本一の兵」と言わしめた。
 一方、領主としては善政を敷き、治山治水を良く行い、領民を大切にした。真田の民は子々孫々にその遺徳を語り継ぎ、火事を免れたその資料等大切に保管されてきた。
 徳川の流れを汲む松平氏の治世を尊び、明治に入りようやく真田四君の三百年前の旧恩を敬い遺徳を偲び、その神霊を慰め地域の鎮護とする為、遺臣北沢金平氏を中心に有志らが集まり、真田一族発祥の地である真田の里に真田神社建設を図る。
 「永世祭祀シテ以テ其神霊ヲ無窮ニ慰メ其威徳ヲ後世ニ輝カサント欲ス」(創立趣意抜粋)
 明治十七年真田家十代幸民公(松代藩主)より許可を受け翌年出願、明治19年に県知事より認可、県下はもとより真田氏に縁故の深い大阪等からも寄付を受け工事を進めるも、明治二十年の真田大火で類焼。その後明治二十一年十月十五日本殿、祝詞殿再建、同二十八年十月初旬に拝殿が完成し、社頭は荘厳を極めた。
 しかし物資乏しく苦しい時代に入り同様の形での修復が適わず、大正八年真田氏崇敬の山家神社境内地に遷し祀る。
 太平洋戦争後、長村関係戦没者の英霊を合祀する議が起こり、昭和二十五年十月末日、百四十九柱の英霊が合祀される。
 真田家が公認した唯一の真田神社。純粋なる人々の信仰のもとに祀られた神社であるが、信仰よりも観光を重視する時代に移り、人々の記憶から忘れられていくことになった。
 平成二十八年七月には参道が整備され、当時の資料が現存したため、塗り替えられた歴史が揺らぎつつある。真実への理解が深まり、真田氏に対する至誠が再び集まることを願う。

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御祭神

御祭神

御祭神

真田幸隆大人命
真田昌幸大人命
真田信幸大人命
真田幸村大人命
合祀 戦没者の英霊百四十九柱

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